ネバーランド
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

あるときある場所、ハートの国がありました。
 
その国は限りない時間帯存在し続けている国でしたが、今、かつてないほどの大変な問題を抱えていました。
 
人々が、退屈で死んでしまうのです。
 
 
 
 
 
 
その始まりとは、こうでした。
 
 
 
また別のあるとき、ハートの女王が死んでしまったのです。
 
原因はなんだったのか分かりません。
 
いいえ、本当は分かっていますが、自殺だろうが他殺だろうが銃殺だろうが惨殺だろうが関係ないのです。
 
今は退屈が原因でなかったということだけ言っておきましょう。
 
とにかく彼だったか彼女だったかが死んだのです。
 
退屈以外の何かしらの理由で。
 
もちろんハートの国のことですから、その死を嘆き悲しむものなどおりません。
 
秘密の弟ですら流さなかった涙を、流したのは余所者の女だけでした。
 
女は涙で水溜りを作りました。
 
涙で池を川を海を作り上げた女に気圧されて、顔のあるものたちは新しく顔を作られたものをぐいと端の方へ押しやって、彼女を次代の女王としました。
 
初めての余所者の女王です。
 
 
 

 
さてハートの国の宰相はその丸い赤目を輝かせて言いました。
 
「どうぞ女王陛下、ご命令を」
 
ここだけの話、ハートの国では周知の事実ですがこの国の宰相はその女にたいそう懸想していて、それは女を女の世界からこの国へとかどわかしてきたことからも知れています。
 
彼は彼女への愛を捧ぐその程度はなはだしく、量はと言ったらそれは空より高く積み上げることが出来るほど、質はと訊けば海より深く潜っても息が続くほど果てしなく。
 
閑話休題、そんな宰相だから、女王になったばかりのその女に命令を、などとばかげたことが言えたのでしょう。
 
しかし彼を責めることは出来ません。
 
そんな彼を、誰も止めなかったのですから。
 
彼の言葉を聞いて、女はひどく幼い口調―――とは言っても彼女はまだ少女と呼んでもさしつかえのない年齢と容姿でした―――で、こう言いました。
 
 
 
 

「みんな、そのばかばかしいゲームとかいうやつを、やめてしまって!」
 
 

 
 
足元までぼたぼたと海を垂らす女の言葉に、宰相は感極まって「ああ! なんと素敵なご命令でしょう!」と叫び、薄っぺらな部下たちにこれを城中、国中に触れ回らせました。
 
「ええ、ええ、皆あなたの仰るとおりにするでしょう」
 
 
 
 

それからでした、人々が、退屈で死んでしまうようになったのは。
 
 
女王となった女の目玉から取り出された海たちがびしょびしょに濡らしてしまった国中の地べたに、ぼちゃんと時計が初めて落ちたのは一体いつだったのでしょう。
 
最初なんてもう分かりません。
 
だって、最初に海で溺れた時計にそっくりな時計たちが、今や数え切れないほどに沈んでいるのですから。
 
とても見分けなんてつきません。
 
顔のあるものもないものも、またたく間に似たような時計に変わって―――或いは戻って―――いって、すぐにその違いも分からなくなってしまいました。
 
気付けば城には女と宰相がふたりきり。
 
いいえ、宰相はウサギなのでひとりと一匹です。
 
止まらない海は既に城のてっぺんの屋根を残してすべてを沈めていました。
 
ひとりと一匹はしばらくその屋根の上で足をぶらぶらさせていましたが、ある瞬間、つまらないうっかり、或いはわざとでバランスを崩してしまいました。
 
海へまっさかさまに降って、彼の愛はなるほど確かに女を空より高いところまで押し上げて海から救ってくれましたが、どうやら海の中で息をし続けることは難しかったらしく、彼は溺れ死んで、その背中だけが海にぽっかりと穴のように浮きました。
 
女はひとりきりです。

 
 
 
「こんなことったら、ないわ!」
 
 
 

膝を抱えてなおも海を滴らせていると、女よりはるか下遠くに時計塔がぼんやりと見えました。
 
「そうだわ、あのひとなら…」
 
いつも時計を直す仕事ばかりをしている彼なら、退屈で死んでしまっているということはないでしょう。
 
これだけたくさんの時計が壊れているのですから。
 
会いに行こうと女は思いましたが、しかし船がありませんでした。
 
それにもしここに船があったとしても、積み上げられた宰相の愛は空よりも高いので、その上に乗っている女はそれを使うすべを持たないのです。
 
だからと言って海面をそこまで引き上げたなら時計塔が水没してしまいます。
 
「ああ、なんてこと」
 
きっと、時計塔にたどりついたとして、彼がそこにいる保証はどこにもないのだと女は自分に言い聞かせました。
 
どうせ、彼に壊れた時計を届ける騎士はもういないのでしょうし、そもそも沈んでしまった時計たちを回収するには海は深すぎました。
 
彼がそれでも仕事のために身を張って時計を取りに海へもぐるだろうかと考えると、そんな姿はみじんにも想像できなかったので、おそらく彼は手持ちの時計を修理し終えたとたん、死んでしまったのでしょう。
 
喜びもつかの間、いよいよ彼女は正しくひとりきりでした。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
零して零して、とうとう海が女のつまさきを濡らし始めたとき、彼女はやっと海が止まったことを知りました。
 
止まったと思ったときにはもう止まっていたので、彼女は自分が海を止めたのか、それとも他の誰かが止めたのか分かりませんでした。
 
ここには彼女以外おりませんから、きっとひとりでに止まったのでしょう。
 
「なんだか眠たくなってきちゃったわ」
 
何せここは空の上、酸素がないので眠くなるのは当然のことです。
 
そう言って彼女は足元の宰相の愛の山から薄っぺらいものを選び出して―――それが何なのかは誰も知りません―――身体が痛くならないように下に敷いて、よいしょとその上に横になり、たった3秒で眠りに落ちました。
 
宰相が海に落ちたとき彼女を押し上げた空より高いここにはもとより酸素どころか空気すらなかったので、彼女は寝息を誰かに聞かれるのではという心配をせずにすみました。
 
もっとも、もうハートの国には彼女以外、誰もいないのですけれど。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

write:2010.07.xx
「ハートの国のアリス」くらい