私はお前に好きだと、そんなことを言ったなんて記憶はまったくない まったくないのだがそれが酒の席での話だと言われると途端に自信がなくなって、つまり私は好きだと、言ったかもしれないと弱気にならざるを得ない。しかしだな、しかしである。それを恋愛感情だの何だのといった浮ついたものによる発言だと思い込まれては困るのだ。そもそも、早合点ではないか?
「だーかーらー 違うって言ってんでしょーが」
「なぬー!絶対に違わない!!」
「違うんだって」
「言った、絶対に言った!!」
いやいやそこは認めたが。論点はすでに推移しているぞ会話についてこい馬鹿か。まあ大半を省かせてはいただくがそういうわけで只今私はこの紫髪の後輩と共に彼の所有するラボラトリイにふたりきり閉じこもってせっせとこのようなくだらない口喧嘩を営んでいるのだがもちろんこのあほらしい行為に意味などないに等しいので私たちは高校生である時代、貴重な時間を無為に失っているにすぎない。相手を罵る中にも誤って好感度を上げでもしたら大惨事だからと無暗に気を遣って精一杯に辛い選択肢を使い神経をすり潰す。けれど天羽翼は傷付かない無敵状態。暖簾に腕押し、糠に釘、豆腐に鎹、他に何か例えられたっけ? 豆腐といえば少し昔テレビで豆腐の上に小さい家を建てて崩すCMあったよなあ。あれってあとでスタッフがおいしくいただいたんだろうか。なんて。
「ぬーん」
あっこいつ。私が少し意識を CMに向けた隙を逃がすことなく彼は傍の何か棒状のものが突き刺さった四角い箱に視線を移した。パソコンだった、もの。速いのか遅いのか分からない妙な速度で異様にキーの多いキーボードを叩く。早送りした道明寺の乱拍子を思い出す気がした。もはや議論の価値なしと判断したのだろう、露出したディスプレイに鼻先を近付けて黒い画面に浮かんだ白い文字の羅列を睨む天羽は二歩後ろの私のことなどすっかり忘れ去ってしまったらしい。それを少し、ほんの少しだけ癪に思って私は地べたに直接胡坐をかいて座り込む。わざとらしくため息をついてみても彼がこちらに注意を向ける様子はまるでなくてそれもまた少しだけ、癪に障った。別に構ってほしいわけではないが狭い部屋にふたりきりという状況で放っておかれるというのも友人として物寂しいものがある。しかし文句を言ったとして今の状態の彼にそれが聞こえるかどうかも分からないと知っていたので諦めて、そこらへんからぐしゃぐしゃに丸まった毛布を引っ張り出して身体に巻きつけ、ある化け物のような見目の蛸足配線染みたコードたちの上にごろんと横たわる。硬いコードがごつごつ当たって邪魔臭かったがこの部屋の中に安心して眠れそうな平たい床など存在しないから仕方なく何度か寝返りを打つことでその異物感に知らぬ振りを決め込んで、寝た。そこでようやく絶えず聞こえていたタイピング音が止んで天羽がこちらを見る気配がしたが、今更である。背を向けて目を閉じると私から数メートル離れたところに鎮座している大きな機械がごんごんと何やら不穏な音をたてて止まった。最後にがたん、とおよそ機械が自ら発しようもないひどい音を響かせる。薄っぺらな毛布に耳を押し付けてようやく聴こえる潮騒だけが耐えようもなくうるさく感じられ、大音量の沈黙に先刻までの騒音が恋しくなった。どうしたんだろうあのでかい箱は、壊れてしまったんだろうか。思い返せばこのラボではいつもあれが激しく動作していたから静けさなんてものとはまったく縁がなかったのだ。新鮮と言えば新鮮だが寂しくもある。様子を伺うべく顔を仰向けてその角張った表面を眺めるとそこはいつも通り冷たそうに天羽のパソコン?のディスプレイのバックライトを反射していたが私はそこが本当は熱を持っていることを知っている。それがいつも通り、の状態ならばだが。今度はうつ伏せになってずりずりと芋虫然に這いずって部屋の隅に移動しようと試みるがコードが引っかかって上手くいかない。だからと言って体温の移った毛布を手放すのも惜しくて闇雲に悪戦苦闘していると知らぬ間にパソコン?から離れた天羽が傍に来ていた。何をするのかと思った瞬間、世界は引っ繰り返るどころか二転三転。毛布の端っこを掴んだ天羽はそれを力尽くしに引いて、包まっていた私は必然的に身に垂直の方へごろごろと転がったのだ。ひんやりした壁に背中をぶつけるとついでにごちんと嫌な音がするほどに後頭部を強く打ちつけた。跳ね返って地面に鼻をつぶされる。鼻血出てない?大丈夫? 何故だか突然しこたま痛い目に遭わされて、世界の上下すら見失ってしまった。とりあえずぐらぐらする頭をなんとか首だけで支えて先ほどぶつかった壁にもたれかかったまま上を確認・認識して立ち上がる。鼻に指を触れてみるとどうやら鼻血は出ていなかったようでひとまず安心する。てゆーか天羽、何がしたいんだ。元、私の寝転んでいた場所、に立っていた彼は私が動きを止めたのを確認するや否や素早くしゃがみ込んでその手に数本のコードを掴んだ。脈絡もなくそれを馬鹿力でぶちりと千切り、放り捨てる。
「天羽ぁ、何すんの! ってか何してんの?!い、良いのそれ千切っちゃって」
私がそう言う間も彼は同じ動作で繰り返し大量のコードをぶちぶちやって、仕舞いには天羽のパソコン?の前にいびつな円状にぽっかりと平らな床が現れた。おわっ、ここってカーペット張りだったんだ。そこに蛸足配線とかやっぱ天羽度胸あるなあ。それともただの馬鹿? 紙一重ってやつかも。…さて天羽、お前は何がしたいんだ? 私は彼をじっと見つめる。あわや情熱的に。
「………ここに、寝れば良い」
そう言って天羽は先ほど私から奪った毛布をそのカーペットの上に置いた。…え、てか、本当に何がしたいの天羽?
「下にコードがあるから寝にくかったんだろ?」
「そ、そうだけどさ…」
ようやく平衡感覚を取り戻した頭でもっても中々にこの状況はよく分からない。つまり、天羽は私に気を遣ってくれたと、
「俺は俺のことを好きな子には優しくするんだ」
「プレイボーイみたいだねその発言。しかしいや、騙されないよ」
結果だけを見ればまあ「優しく」したことになるのかもしれないが、その前に天羽は私をコードの化け物が伝うでこぼこした床に転がして、あまつさえ背中と頭を漏れなく強打させるという間接的な暴力を行っているのだ。最後にほんの少しだけ「優しく」してみたところでそこから目を背けるというのはどだい無理な話である。
「ありがとうは?」
「マッチポンプ!!」
私は憤慨したが天羽は「素直じゃないな~」って、それは違うだろ天羽!
「調子に乗んな!」
「どうしたんだ? 寝ないのか?」
天羽は私の言葉を華麗に鹿十してそう訊いたが、このテンションでそんな気分になれるはずもないので私も鹿十する。明後日の方向を向いてやると彼がむっとしたのが空気で分かった。自分は普段普通に無視してくるくせにそれを私がしたら途端に機嫌が悪くなる、とか子供すぎるのにも程がある。だが今はそれを狙ってやったのだから正直好い気味だとしか思わない。…そんなことを考えていたから、私はまたもや天羽の接近に気付けなかった。
「ぬーん、捕まえた!」
「ぎゃっ」
「君がその気なら、俺が勝手にするだけ!」
何とも身勝手なことを言って彼は私の心許ない胴回りを引っ掴んで肩に抱え上げる。ぐらり、と不安定な滞空と突然の扱いにまたも私の三半規管はばかになった。
「おおおお降ろして天羽!降ろせ!!…う、気持ち悪、」
「暴れると酔うぞ~」
そう言って天羽は人並みにあるはずの私の体重を片方に乗せて、長い脚を十二分に駆使し私をその目的地へと運搬する。少しばかり自律神経失調症かなんかの気がある私にはこういう揺れがひどく応えるのだと、知っていてこういうことをするんだ。天羽ってやつは。一応落っこちたりしないようにということなのか念入りなくらいには支えていてはくれるけど、その程度の気遣いで帳消しにできるだなんて思わないことだ。案の定、降ろされるときは彼が自分の通学鞄を床に放るのと同じくらいの丁寧さ加減だった。少しは先輩を敬えよ。
「ほら、入って入って!」
既に自分の好きな体勢を取って寝転ぶ天羽は薄っぺらい毛布を捲って手招きしている。何がしたいのか、意図は分かるけれどやっぱろ意味が分からない。でもそんなことをぶつくさ言ってたって天羽が私の気持ちを汲んでくれることなんてそれこそ万にひとつもないんだから、諦めざるを得ない。私はまたわざとらしくため息をついて、大人しく彼の言いなりになってひとりで包まっていたときよりもずいぶんと狭く感ぜられる毛布に潜り込む。
「こっちの方がぬっくぬくで寝やすいだろー?」
「あーはいはい」
実際、まったくもってその通りだから困ってしまう。どうせ五分も経たないうちに寝相のひどい天羽に蹴り出されてしまうんだと分かっていても、ひとりより温かな毛布は魅力的だった。早くも寝始めた天羽の、ぬーぬーという寝言がうるさくて到底寝れそうにもないけれど。…酒の席以外じゃ恥ずかしすぎてとても言えないっての。こんなのが好きなんだから、私って、どうかしてる。
 
 
 
ラボラトリイと蛸足コード
 
write:20110209