ずぶん、と手はひどく重たひ音をたてて水の中に沈み込んできた。

水槽の辺と辺と底の交差点に身を縮こまらせて私はそれを震えながら見る。
杞憂、人差し指だけネイルエナメルを塗つた左手は手首をぐねぐねと時計回りに蠢かしながら水槽の一辺をぞろりとなぞりこびりつひた藻を付け爪の先で浚ひ、それだけで引き上げていつた。
私は唇から淡水を吐き出してまう一度上を見た。
内側から見る水面には安堵の表情を浮かべる私が映つてゐる。
そろそろと尾ひれを泳がせてそこから顔面を覗かせてみると、女は藻の付着した自分の爪先をつぶさに眺めてゐるところだつた。
真つ赤なルージユを塗りたくつたやうな厚ひ上唇、下唇の間から、これもまた何処か染色されたやうな赤赤とした舌が覗く。
ちろちろと、まるで私の見たことのなひ、あの「炎」といふやつのやうである。
だうするのかとはらはらしながら見守つてゐたら、ルージユの女は突然がぱりと大口を開けてその長ひ長ひ舌を垂らし自らの人差し指をべろりと舐めまわし始めた。
私は息を呑む。
女の赤ひ舌に緑色した藻が張り付ひてゐる。
肉と爪の間に詰まつたものもしつかりと拭ひ、指先は元通り綺麗になつた。
女はぎよろりと、落ちてきさうなほど大きな眼球をこちらに向けた。
私は心臓が止まつてしまひさうなほど驚き、急ひで回れ右をし元ゐた隅つこの方に戻る。
今度もずぶずぶ音をたててこちらへ沈んできた手は先刻とは違つた一辺をなぞりまた藻を口に運んでいつた。
すべての辺を綺麗にしてしまふと、今度は女は長い髪の毛が濁つた水に浸るのも構わずにそのかんばせをぐいと私の方へ、正確には水槽の底へ近付けた。
 

ず、ず ずずず ず ずずずずず ずず、
 

風邪つぴきが鼻をすするのに似た下品な音が頭に直撃する。
女はごくりごくりと美味しさうに汚水を啜り、飲み下す。
始めの三分の二ほどの水量になつたところでやうやく女は顔を離し、右手の甲で濡れた唇を拭つた。
さすがに飲み過ぎたのか、咥内で一度戻したやうな音がした。
唇の端に藻が混じつた水が垂れる。
ごぷ、と吐き出された水草混じりの水がひとくち分、水槽に落ちてくる。
狭い水槽の中だからその水は直ぐに私の口元まで届ひた。
少しだけ酸つぱい味がするやうな気がした。
それから何も起こらなひ。
不審に思つて恐る恐る水面に顔を出してみる。
至近距離に女のかんばせがあつた。
にま、と口端を引きつらせた女は、何時の間に取り出したのであらうミネラルウオータを手に持つてゐた。
蓋の空ひたそれを私の頭上で引つ繰り返す。
ぼどぼどと頭が割れてしまひさうな衝撃が襲つてくる。
水が水槽を満たした頃にやうやっと女は傾けた腕を元に戻し、ゆらゆらと揺れる水を除けばまるで平穏そのものだ。
私はまた口から淡水を吐き出した。
ゆつくりと尾ひれを振り水槽の中を泳ぎ出してみる。
新しひ水は私の苦手な味がした。
ついつい嫌さうな顔をしてしまふ。
すると女は未だネイルエナメルを塗つていなひ方の手を水中に差し込み、私の胴をむんずと掴んで窓の外に放り投げた。
 

ヒステリツク女に金魚の雨降る
 
write:20110628
「私」=月子